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知れない街 - 12話:5月5日
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5月5日
 僕は近所のスーパーマーケットで買い物をしていた。牛乳やパンといった生活必需品以外は買わない。デザートの一つでも買える余裕があれば良いなんて、思わなかった。思っても現実は変わらない。思えば、渇望してしまうかもしれない。それは心を醜くするのだろう。欲しいと思わない。そんな対策さえも心を狭くしてしまう気がする。どうやらお金の余裕は心の余裕に直結するようだ。
 僕は目のやり場に困っていると、ある家族が目に留まった。両親に挟まれて歩くのは小学生の男の子だった。六年生位だろうか。笑顔を両親に振り撒いては、時折父親に抱き付いて甘えていた。その度に父親は笑顔で息子の頭を撫でていた。
 「怖い、怖い。子供が親に抱き付いている。なんて恐ろしいんだ。」僕の左胸が悲鳴を上げる。「本当は嫉妬している癖に。」右胸が左胸に冷ややかな視線を投げ掛けた。僕は親に抱き付いて甘えた記憶を持っていなかった。甘えるってどうやれば良いのだろう。そんな得体の知れない愛情表現が、とても怖かった。
 触れてみたい気持ちはあった。けれど、それは興味本位なのだろうか。それとも小さい頃求めていた物で、ずっと欲しかったからだろうか。自分の中の本当を知るのは怖かった。大人になった今、あんな小学生のように素直に抱き付いて甘える事は出来ない。その事実だけが、僕に距離を置かせた。防衛反応だろうか。
 「怖い、怖い。僕の親子関係があんな風じゃなくて良かった。将来、親の介護を放棄した時、後ろめたさを感じずに済むから。」左胸が右胸に伸し掛かった。「そんな事言って、親が実際に寝たきりになった姿を目の当たりにしたら、見捨てられやしないよ。どんな親子関係であろうと。」右胸が勝ち誇った顔を覗かせた。
 「怖い、怖い。心の傷は転んで出来た傷と違って、自然治癒しないのに。糸と針で縫う事も出来ないのに。そんな傷を背負ったまま、憎い親の面倒を看てしまう人間の心理なんて受け入れたくない。」左胸が僕の胸を突き破ってどこかへ行ってしまった。
 僕は無意識の内に冷凍食品が入っているクーラーボックスに手を突っ込んでいた。この両手が凍って、砕け散れば良いのに。そう思いながら手をボックスの壁に叩き付けていた。何度も、何度も。ムチで自分を罰するかのように。痛みで嫌な記憶を追い払うかのように。周囲から人が遠ざかっていた。
 遠くの方に先程の親子の姿が見えた。会計を待つ間、息子は父親のズボンのポケットからアメを取り出して、食べていた。そして今度は母親に抱き付いて甘えていた。
 「怖い、怖い。」
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