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知れない街 - 10話:4月7日

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4月7日
 涙で濡れた瞼を開くと、そこは夜の教室だった。窓もドアも閉められた密室の中で一人立っていた。歩こうとしても、容易に動く事は出来なかった。僕は翡翠色の水に胸まで浸かっていた。水の色や教室を照らすのは足元に沈んだ蛍光灯だった。
 僕は周囲を見回した。教団側の黒板には「卒業おめでとう」と書かれていて、反対側の黒板には「入学おめでとう」と書かれていた。けれど、文字は上下逆さまだった。蛍光灯が教室のプールに溺れた訳ではなかった。僕の地は教室の天井で、僕の天井は教室の地だった。
 そう認識した時だった。部屋の天井にへばり付いていた机と椅子が次々と水中へ落ちて来た。僕は身を縮こまらせて、身を守った。何かが右肩をかすめたけれど、幸いにも怪我はなかった。
 僕は水中に浮かんだ障害物を払い除きながら、窓際へ向かった。外はとても綺麗だった。沢山の夜桜が無数の白熱灯に照らされていた。そして僕は認識した。教室と言う空間だけが上下逆さまに虐げられている事を。
 窓の鍵を開けても、開く事はなかった。ドアに駆け寄ってみても、やっぱりドアが開く事はなかった。
 僕は教室に閉じ込められたみたいだ。どうしてここにいるのだろうか。どうやってここに来たのだろうか。僕は身近な記憶を手繰り寄せてみた。
 最後に自分の部屋にいた時。それは寝る前だった。その日、小さな小学生達が集団で登校している姿を見て、過去が懐かしく思えた。埃まみれになった小学校の卒業アルバムを取り出して、暫く眺めていた。そのまま眠気と共に寝てしまった。
 きっとここは夢の中なのかもしれない。「何を求めて、ここに訪れたのだろう。」声に出して自分に染み渡らせた言葉が、黒板や水面、窓に当たり反響した。
 僕は何かを求めて水中に潜ってみた。水中にはシーラカンスやデメニギス、ウミグモ等の深海生物が生息していた。そして国語の教科書や、ペンケース、分度器、リコーダー、上履き、リレーのバトン、粘土で作られた恐竜、色んな物が底に沈んでいた。それら沈んだ物達の顔は蛍光灯の光に照らされて悲しそうだった。
 僕は粘土で作られた恐竜を拾い上げて、陸のない水面に浮上した。工作をする授業の時間、僕は何度も粘土で恐竜を作っては壊し、ようやく満足出来る作品を作った事があった。あの時の記憶が当時の感情と共に胸に沁み込んできた。達成感と喜びに僕は満たされた。今、手に持っている恐竜が息を吹き返したのが分かった。
 今度はリレーのバトンを教室の空気に触れさせてみた。僕は運動会の徒競走でいつもビリだった。その度に走るのが嫌になった。なぜなんだろう。今は走るのが好きだった。知らない道や自然に包まれた道を走る事に喜びを感じた。今も遅いのは変わらないけれど。僕はこの教室でバトンを渡されたのかもしれない。僕から僕へ。
 どんな物も想いや映像を持っていた。全てが楽しい思い出ではなかった。悲しい記憶もあった。けれど、いつの間にか僕にとって優しいものになっていた。力になっていた。味方になっていた。
 この教室には、忘れてしまったものや、置いてきたものがあるのかもしれない。胸の中に閉まっていたら、いつしか引き出しの場所を忘れてしまった。それは悪い事なのかもしれない。けれど良い事のようにも思えた。大人になって、色んな事を経験して、強くなった証なのかもしれないから。
 こうやって昔の記憶に浸ってみるのは良かった。なぜか懐かしい気持ちが、胸を貫くような痛みを伴わせるけれど、嫌いではなかった。むしろ好きだった。悲しみの中に温もりを感じた。僕は教室のプールで、大の字に手足を広げて浮かび、漂った。目から流れる涙はとても温かかった。僕は目をつぶって記憶に浸った。
 朝が来た。僕は枕に頭を乗せていた。僕は教室での事を想い出した。きっと教室から出る方法もあったのかもしれない。けれど、そんな必要はなかった。
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