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知れない街 - 9話:3月29日
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3月29日
 僕は自分の部屋で軽い昼食をとっていた。摂るには足らないものだった。観る気も聴く気もしないテレビを必ず点けてしまうのは、なぜだろう。
 テレビから聞こえる人の声が右耳から入って、左耳から抜けていく。幸いにも、僕は突然の訪問者が玄関ドアを叩く音を聞き逃す事はなかった。だけど何が幸いだろうか。そんな、どうでも良いような疑問が、日常の中で平穏をもたらすのかもしれない。
 「助けて。」ドアを何度も叩きながら叫ぶのは女性の声だった。僕はドアの鍵を外し、声の主を招き入れた。招き入れると言うより、雪崩込んで来た。
 「どうしましたか。」僕はドアを閉めながら尋ねた。「追われているの。苦しみに追われているの。」そう彼女が言うと、何かを思い出したかのように頭を抱え、地面へ自分の額を叩き付け始めた。
 僕は必死に彼女を止めさせようと、彼女を抑えようとした。「ほら、そうやって人はすぐ力で押さえようとする。人間なんか大嫌い。」彼女が喚く声の内容を理解した瞬間、僕はとっさに両手を彼女から放した。その反動で彼女は額を地面にぶつけた。
 「何か悩みがあるのなら、聴くよ。」僕は「大丈夫。」と問いかけながら彼女をなだめた。彼女は少し冷静さを取り戻したようだった。周囲を見回した後、床に顔を向けて話し出した。
 彼女は悩む事に悩んでいた。苦しんでいた。彼女は悩む事事態は好きだった。悩んだ先の発見や、解決した時の快感が好き。悩む事で成長できる。なのに、いつからか身の丈に合わない悩みを抱くようになっていった。それは苦しみでしかなかった。
 「悩みがあるから生きていける。」彼女にとって彼女が頑張るための言葉は、彼女を苦しめるための拘束具に変わった。それはとても残酷で、届かぬ光は、希望にも絶望にも見えるようなものだろうか。僕は彼女じゃないから推測する事しか出来なかった。
 「乗り越えられない悩みなんてない。」彼女が手にする言葉はどれも、励ましのようで、励ましとは程遠かった。
 どちらでもあるのだろうか。悩みは光り輝く前のダイヤモンド。そこら辺の道具で原石は輝かない。技術だって必要。けれど、そんな事実は事実でしかない。その時その時で、求める言葉はいつも異なる。
 僕は彼女に言った。「手に負えない悩みなら、誰かに相談してみると良いよ。相談出来ないなら、投げ出してしまえば良い。いつか手に負える日が来るかもしれないし、ずっと来ないかもしれない。間違った道を選んだとしても、自分で決めれば後悔も苦しみも少ない。きっと同じ場所に留まらずにいられるよ。」
 僕は嘘を吐いた。誰かにとっては真実かもしれない。けれど、僕は自分の言った事に確証が持てなかった。だけど、そうであって欲しいと願った。無責任な事を言ったのだろう。
 彼女は僕の言葉に反応しなかった。彼女は俊敏に後ろを振り返ると、表情を強張らせて悲鳴を上げた。一目散に玄関ドアへ駆けて行く。ドアも開けず、ドアをすり抜けた。
 後に残ったのは、僕の耳に伝染したかのように何度も反響する彼女の引き裂かれた悲鳴だった。
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