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知れない街 - 8話:3月27日

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3月27日
 朝、目が覚めると僕は石ころになっていた。生まれたばかりの凸凹した石。僕は訳もなく丸い石になりたかった。そう遺伝子に組み込まれているのだろうか。
 「痛い。」そして僕は転がった。歩道で僕は子供に蹴られてしまった。「痛い。」また蹴られて僕は叫んだ。けれど声は届かなかった。届くはずはなかった。人間にとって石は物であり、声を出す生き物ではない。そう認識した瞬間、聴こえるはずの声も聞こえなくなった。
 僕だって、かつては人間だったから解る。「僕は人間だったのか。」消えそうになっていた記憶が再び色を帯びた。
 僕は誰かの靴の上に乗っかり、空へ舞い上がる。翼を持たない石は重力に逆らえぬまま車道へ落ちて行った。
 「痛い。」僕は車にひかれた。僕は転がり車を避けるけれど、やっぱり何度もひかれてしまった。「僕はどうなってしまうんだろう。」涙目で周囲を見渡す。どうやら、ひかれているのは僕だけではないみたいだ。空き缶もビニール袋もひかれる度に、高い音を発していた。
 僕の肺は温かい排気ガスで満たされる。僕だけじゃない事への安堵は、胸の中に降り積もる汚染物質の所為だと転嫁したい気持ちに駆られた。
 僕はガードレールの下をくぐり抜け、河川へ投げ出された。水流に逆らえない程軽い僕の重力は、川底で僕がコロコロと転がされる事を許した。
 冷たい水の中で息も出来ずに転がり続ける。聞こえるのは水の歌声。スローモーション現象に浸された脳に相反した時の辺境で、僕の抵抗と反発は、みるみる石が丸く削られる事で消えていくみたいだった。
 河口付近まで旅をしたのだろうか。水位が次第に下がっていった。僕は顔を水面に向け呼吸をした。吸い込む空気は、時の中枢を呼び戻す。遠くに三角州が見えた。
 急に僕の足は動かなくなった。水流よりも僕の重力が勝ったのだろう。僕は多くの小さな石ころに囲まれ、紛れて同化していた。目立つ事のない存在。蹴られて泣いていた頃がとても懐かしく思えた。
 直ぐ近くの河原で、子供達がはしゃいでいた。寒そうに着込みながら、それを見守る大人達もいた。
 「あの頃の君は、もう帰っては来ないのだろうか。」僕は大人達を見つめながら呟く。それは自分に対して言っている事なのかもしれない。冷たい風と冷たい水。身体に障る物だと退かしてしまったら、その物達の声を聴く事は出来ない。
 僕を浸す水が段々と冷たくなってきた。太陽が遠くへ落ちて行く。人の声はもう聞こえなかった。水の冷たさで思考が鈍っていく。時の辺境で、僕の意識は沈んでいく。
 その時の僕は気が付かなかったけれど、それは僕が人間に戻る途中の遷移を意味していた。意識の繭の中で、僕は記憶も体も変態を始めた。
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